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僕は、自分がいわゆる洋楽に興味を持った瞬間を明確に憶えています。高 2 の秋でした。家族で日光に紅葉を見に行って、いろは坂で渋滞につかまった時、ラジオで『オール・ジャパン・トップ 20』という番組が流れていました。小林克也が DJ でしたが、『ベストヒット USA』と似て非なる、日本における洋楽のトップ 20 チャートを発表していて、つまり G.I. オレンジとかもランク・インする素晴らしい番組でした。その週の 1 位、2 位はスティービー・ワンダーの「パートタイム・ラヴァー」と a-ha の「テイク・オン・ミー」。その次の週には『ベストヒット USA』を見始め、数週間後には朝日放送系『MTV: Music Television』(セイラ・ローウェルとマイケル富岡が VJ をやってたアレです)を、眠い目をこすりながら見るようになっていました。 そのうち、一瞬で眠気がフッ飛ぶものを目撃しました。ピート・タウンゼントの Face the face の PV でした。その時点では、ピート・タウンゼントどころか Wh♂ の ♂ の字も知らなかったんですが、とにかく衝撃的で、まず曲のジャンルがよく分からない。これは 25 年以上経った今でも分からなくて、バンドはホーンも入った大編成でハーモニカまでいる。リズムはシンプルな後打ち 8 ビートなのに、歌はラップ。間奏がやたら長くて、こっちは今なら分かるんですが、ミニマル・ミュージックになっていて、間奏の間に徐にフェーズが変化して、再びラップで終わる。そして、異様にデカくて鼻もデカくて額の禿げあがったオッサンが肩巾の広いキンキラキンのスーツを着て、ラップをしたりタクトを振ったりしながらピョンピョンと跳びはねている。なんじゃこりゃ、と。なんだかわけわからんけど圧倒的にカッコ良い!と。その日は録画をしていなかったので、曲終りのクレジットを急いでメモして、翌日学校で学年一洋楽に詳しい友人に「ピート・タウンシェンドってだれ」と聞いたら「タウンゼント」と返されました。 当時の『MTV』にはゲスト VJ の回があって、「ロック・ミー・アマデウス」が流行った時にファルコの VJ(オーストリア収録!)がオン・エアされたんですが、そのなかで、トーキング・ヘッズの「ワンス・イン・ア・ライフタイム」(映画『ストップ・メイキング・センス』のライブ映像)やウルトラヴォックスの「ヴィエナ」(オーストリアだけに)にはさまれて、古いモノクロの PV(?)が流されました。それが、アーサー・ブラウンの「ファイヤー」の映像で、当時はピート・タウンゼントとアーサー・ブラウンが旧友で、「ファイヤー」のヒットはピート・タウンゼントの尽力あってのものだったなどとこれっぽっちも知らなかったのですが、この映像にもド胆を抜かれました。 ほどなくして東京へ行く機会があった時、僕は生まれて初めて渋谷宇田川町のタワーレコード(今のサイゼリヤがある場所)に足を踏み入れました。アメリカ盤レコードのシールドを開けた瞬間の、あの匂いがつねに充満していたタワーレコード。あそこには 7 インチ・シングルのコーナーがあって(あのコーナーは宝の山だったな)、そこで Face the face のシングルを無事発見したものの、アーサー・ブラウンはありませんでした(そりゃそうか)。さてどうしたものかと階段を上ってチチカカのある(あった)マンションの前まで行くと、マンションの入口にレコード屋の看板があるのに気付きました。店名はマザーズレコード。今思えばそこが「あっち側の世界」への入口だったのですが、そうとも知らず僕はそのマンションの一室に入って行きました、アーサー・ブラウンを探して。我ながら凄いなと思うのは、本当にそこにアーサー・ブラウンの LP があったことなんですが、そうやって探し物を手にして改めて店内を見回すと、壁中フランク・ザッパのレコードだらけ。これはだれ、なんか怖い...とたじろいで、その日はアーサー・ブラウンだけを買ってそそくさと店を出て「こっち側」に帰還したんですが、フランク・ザッパという名前は僕の脳に深く刻み込まれました。その時は情報ゼロだったんですが、その後まもなくタイミングの悪いことに、『ミュージック・マガジン』のフランク・ザッパ特集号が出ました。初めて買う『ミュージック・マガジン』がザッパ特集号。次に僕が東京に行った時、マザーズレコードに直行したのは言うまでもありません。 当時ザッパのレコードは高かったんですが、2 枚組なのにカット盤だったので安くて、ジャケットも面白かった『ティンゼルタウン・リベリオン』を購入。家に帰って針を落としました。このアルバム、基本的にライブ盤なんですが、1 曲目だけがスタジオ録音の「ファイン・ガール」という曲で、この曲が思いのほかにキャッチーで、とは言っても、レゲエとドゥーワップを混ぜたような変拍子曲でした。ここまで来たら分かると思うんですが、僕、わけ分からないけどスゲー曲が大好きなんですよね。そっから先はドカーンとあらゆる音楽に手を出すようになってしまうわけですが、この頃知った曲は、今でも自分にとってスペシャルな曲です。以上、僕の「ザッパへ至る短い道のり」でした。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-29 08:05
「この前、だまし絵の展覧会やってたんで見てきたんだけどさ」 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-26 08:18
スマイレージが結成されて和田彩花がハロプロエッグを去ったあと、ED(エッグ大好き)だった僕が推した双璧は、関根梓(現・アップアップガールズ(仮))と譜久村聖(現・モーニング娘。リーダー)でした。譜久村聖のコンサート初参加は、あやちょが「十七の夏」を歌った、あのメルパルク公演でした。トークのコーナーで愛犬のパピヨン「クララ」が立って歩くという話をして、客席のオッサンと司会のまことに「...クララが、立った?」と呟かせた子が譜久村聖ですよ、と言えば、「あれがそうだったのか」と記憶がつながる元エッグ・ヲタがいるかもしれません。 そうです。あの「フクちゃん」が、いまやモーニング娘。のリーダーです。しかし、僕は彼女のことをフクちゃんと呼びません。アンチ横山隆一だからです。嘘です。つんく♂の考えるニックネームには「それってどうなの?」感がありがちなので、僕は彼女との初握手のとき聞きました。 今からは想像し難いですが、みずきは最初、どちらかと言えば「色が黒くて細い子」でした。彼女が変わったと僕が思ったのは、2007 年に池袋シアターグリーンで行われた「女優宣言」の頃でした。僕は、公演を見ない日も、日替わり写真を買うために毎日会場に通っていました。ある日、早めに到着したので入口でぼんやりと立っていたら、駅と反対の方から少女が一人で歩いてきました。彼女は僕の目の前を、シャンプーの香りが漂うくらいの至近距離です~っと横切っていきました。「えっ?」と思って振り返ると、僕に気付いて振り返ったその少女がみずきでした。その時のみずきがハッとする美少女で、僕が声をかけるとニッコリと会釈して会場に入っていったんですが、あの時はときめいたなあ。子供が少女になる瞬間というか、以前から知っているクラスメイトの女子が「あれ、この子こんなにキレイだったっけ?」と気付いた瞬間というか、そんな移ろいゆく少女の美しさ。しかもその時のみずきは、私服でスカートが超短かったので更にドキッとしました。「みずきのスカートは超短い」というのは、それ以降もたびたび話題になった重要ポイントなんですが、それはひとえに、当時のみずきの私服を選んでいた(ひょっとしたら今も選んでいる)みずきのお母様のおかげでした。この公演にはレッスン風景を撮った一連のオフショット生写真というのがありまして(撮影者は保田圭、グッジョブ!)、そのなかで、なにがあったのか知りませんがみずきが涙を浮かべている写真があって、これがいまなおみずき写真史上トップと言っていいくらい美しい。そういえば、一部のヲタがみずきのことを「団地妻」と呼び始めたのもこの頃でした。 みずきは真野ちゃんのバック・ダンサーをしていた時期があるんですが、その時期のみずきの代表作が、「春の嵐」の PV のダンス・ショット・バージョンです。見てもらえば解るんですが、上手後方にいるバック・ダンサーのみずきのダンスがとにかく凄い。後に本人が語ったところの「悪目立ち」しています。後楽園のラクーアでこの曲のイベントが行われた時、公開リハーサルがありました。みずきは私服でリハーサルを行い、つまりスカートが超短くて、それでダイナミックな動きをするものだから、僕は思わず唸ってしまいました。イベント後の握手会で「みずき、今日も私服のスカート短かったね」と振ったら、みずきは僕の手を強く握ったまま、上目づかいで「いや~ん♪」と言って腰をクネクネするので、こっちはクラクラきてしまいました。申し訳ありません...。 ハロプロエッグは 2010 年末に解体されましたが、そのラスト公演や、その前の回の公演で、みずきは出番が多く、全体曲でも前の方で(なぜか他の子より露出度の高い衣裳で)絶好調に悪目立ちしていました。明けて 2011 年の正月のハロプロ・コンサートでモーニング娘。の 9 期が発表された時、僕は残念ながら中に入れなかったんですが、ネットの実況を見ていた友人から「エッグから一人、9 期に入ったらしいけど」と聞いて、僕は即座に「みずきでしょ?」と答えたのでした。僕に言わせれば当然の話だったんですが、そういうヲタの予想をアレな意味で裏切る場合の少なくないハロー!プロジェクトでは英断だったと思います。 かくして僕は、8 年の時を経て、再び「モーヲタ」に返り咲くことになるのでした。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-24 08:04
ハロプロについてなにか書こうと思ってもハテどこから書いたものやら、って感じなので、とりあえず、ももクロのことを書きます。僕がももいろクローバーの現場に通った時期は短く、「Z」が付く前後の半年くらいです。しかも、スマイレージ優先だったので、行けなかった現場がたくさんありましたが、そのあいだにも、護国寺(護国寺といえば和田彩花の...いやその話は別の機会に)の節分の豆まき(他のゲストは角川博など)に行って、最前の百田夏菜子の真下(距離数十センチ!)で手を出したら、100 歳分くらいの豆を直接手渡されたことがありました。 3 月に入って早見あかりの卒業が近づいたある日、豊洲ららぽーとの屋外ステージでイベントがありました。3 月の夜だったので当然寒く、ももクロのイベントの場合ライブ前に握手会をすることが多いんですが、その日は、握手会が始まる前に空に月が浮かんでいました。僕はイベント前にららぽーとに着いていましたが、握手はしないので、ステージ横のフリー・スペースでスタッフが準備をするのを眺めていました。予定時刻が近づき、握手会に参加する人たちが離れた場所で整列しているあいだに、ベンチコートを着たももクロの 6 人がステージに上がってきて、照明が当たっていないステージの中央で肩を寄せ合うように集まってなにか喋っていたんですが、ふと一人が月を指差すと、他のメンバーも月を見上げて、そのうち全員がアカペラでなにかを歌いだしました。マイクがなくて、耳をすまさないと聞こえない声でしたが、僕以外だれも気付いていない状況で 6 人が歌いだしたのは、ももクロの曲ではありませんでした。かすかに聞き取れた歌詞は、瞳を閉じればあなたが、みたいなものでした。僕は曲名を知らなかったので、握手会に参加する人に頼んでメンバーに曲名を聞いてもらいました。それは、レミオロメンの「3 月 9 日」でした。奇しくもその日は 3 月 9 日、月が出ている 3 月 9 日の寒い夜に、もうすぐ 6 人でなくなってしまうももクロの 6 人が、誰に聞かせるでもなく「3 月 9 日」を歌っている瞬間、それに気付いたのは僕だけだったかもしれません(離れた場所で見ていたら、歌っていることさえ解らなかったでしょうから)。その時そこにいたのは、アイドル以前に、仲のいい 6 人の少女たちでした。 ちなみに,そのイベント・ツアーは週末まで続く予定でした。翌々日には、新宿タワーレコードでイベントがあり、そちらは朝に整理券が配布されて夜に行われるイベントだったので、始発で並んで券を確保した後、友人と「じゃあまた夜に再集合ということで」と一旦解散したら、解散しているあいだに震災が起きて再集合することはなかった、という、そんな時期の話でした。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-22 08:06
あなたの目の前に 1 個の倒れているジュースの缶があったとして、もし「それを立てることができますか?」ときかれた時、「できません」と答える人はほとんどいないでしょう。しかし、我々のいるこの宇宙全体で「倒れているジュースの缶が立つ」という現象が他のどんな状況で起こり得るのか改めて考えてみた時に気付くのは、缶が立つことが、起こる確率の極めて低い現象だということであり、ましてそれが任意に起こる環境なんて、少なくとも我々の観測の及ぶ限り人間がいる場所しかあり得ないということです。仮にこの宇宙を更にその外から観察できる存在がしたとしたら、地球を見た時に、倒れている缶がどんな仕組で立つのか、全く理解できないかもしれません。しかも、当の地球人が、それが特殊な状況であることに全く関心を示していないのも驚きです。この惑星では、この時空に於いて本来あり得ないはずの物理現象が、極めて多様な形をもって常に発生し続けています。それはあたかも超新星の輝きのような凄まじい情報爆発であり、その発生には著しく振幅の広い不確定性を伴います。例えば量子力学に於ける不確定性というのは素粒子スケールの話であり、その不確定性が更に大きなスケールに影響を及ぼすとしても、せいぜい気体や液体の分子 1 個のふるまいに対するレベルなのと比較して、この惑星で発生している不確定性のスケールは極めて大きく、その結果の予測はほぼ不可能です。地球上の人間の 1 個体、例えばあなた自身が今夜外食するとして、一体何を食べるのか、結果が出る前に確実に言い当てることはできません。そういった極めて振幅の広い不確定性を無尽蔵に生み出しながら、地球人は今もせっせと倒れた缶を立てたりラーメン食ったりカレー食ったりアイドルのイベントを見に行ったりしているのでした。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-19 11:07
キッズ FC ツアーは、そのあと数日のあいだに札幌、福岡、名古屋、大阪でも行われ、僕は居ても立ってもいられず名古屋に行くことにしました。イベント参戦 3 回目にして名古屋遠征です。 名古屋では「あななし」で徳永千奈美が振付を間違ったり、現ハロプロ・リーダー(!)の矢島舞美がキッズ・オーディションのときの徳永千奈美とのエピソードを語ったり(心細かった矢島に徳永が「友だちになろうよ」と声をかけ、2 人とも合格したという話)、いろいろありました──というわりに徳永千奈美のことしか憶えてなかったりするんですが、個人的にはさらに、握手会の前に場内 BGM に合わせてなんとなく首を左右に振ってたら、それを見た徳永千奈美が僕の真似をして同じように首を振り始めた、みたいなこともあり(すでにシンクロ率 400 % !)、そんな楽しいこともあったので、それ以降 Berryz の東名阪の現場にほとんど通う生活が始まってしまうのでした。 本当はいろんなことがあったんですが、たいていの場合僕の感想は「今日も徳永千奈美は徳永千奈美であった」というもので、長い間には、髪を切ったとか伸びたとか、身長もちょっと伸びたとか、その程度の変化があったものの、結局徳永千奈美のイメージは最初の中野サンプラザから 10 年以上を経てもあまり変わることがなく、センター争奪戦に加わることもなくて、端っこのほうでニコニコしながら時々突拍子もない言動で笑わせてくれるアイドルをずっと続けていたのです、徳永千奈美という子は。すばらしい。 って、このペースで書いてたら徳永千奈美だけで本一冊分くらい書けそうですが、ひとまず終了です。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-17 08:06
ZYX、あぁ!によって再びハロー!プロジェクトに、というより「ハロー!プロジェクト・キッズ」という小学生集団に、僕は興味を持ち始めました。年が明けた 2004 年 1 月 14 日には、ハロプロキッズの新グループ発表記者会見が公開で行われるということで、1 月の本当に寒かった中野サンプラザ前に僕は並びました。結成されるグループの名前、人数、メンバーについての、事前の情報はゼロでした。それでも、あの ZYX、あぁ!に続くグループだし、公開記者会見までする力の入れようだしで、期待は大きかった。けれど、発表されたメンバーは 8 人もいて、正直その時点では海の物とも山の物ともつかない感じがしました。愛理がいないのに、ZYX や あぁ!のメンバーが含まれていたりして、ZYX、あぁ!はどうなってしまうのかという心配が先に立ちました。このグループが、まさかそのあと 10 年以上も続くなんて、僕はその時点で考えてもいませんでした。そんななか、8 人のなかでいちばん返事が元気いい子に目が留まりました。それが徳永千奈美でした。 それからしばらくして、「キッズ FC ツアー」と称するイベントが行われることになり、僕は ZYX、あぁ!のライブが見られるものと思って、再び あぁ!のイベント会場だったラフォーレ六本木に並びました(ラフォーレ原宿は知ってるけど六本木なんて知らねえよ、という人もいると思いますが、僕もそのときまで知りませんでした)。スタンディングのイベントに客もスタッフも慣れていなかったので、一曲目の「Go Girl」から客が暴れすぎてイベントが中断し、あわや中止になりかかりました。なんとか再開してトークやゲームが行われ、メンバーがいったん引っこんで、さあ次は あぁ!か ZYX か、と思ったら、出てきたのは衣裳を着た Berryz 工房。こないだ結成されたばかりの Berryz がなにやるの?と構えていたとき、「あなたなしでは生きてゆけない」 のイントロが流れてきた衝撃たるや。すでにオリジナル曲があるなんて想像もしてませんでした。長い間ハロプロを見てきたなかでも、あれほど驚いたことは数えるほどしかありません。とんでもないものが生まれる瞬間に立ち会ってしまったかも、という気持ちが、曲が終わるころ、確信に変わっていました。すべて「あなたなしでは生きてゆけない」という楽曲あってのことのことでした。そしてこのときすでに、僕はステージ上手奥にいた、ロング・ヘアーの徳永千奈美しか見ていませんでした。 イベントのあと、ランダムに Berryz メンバーのトレカが配られました。僕が、自分で引いた菅谷梨沙子のトレカを交換しようと思って掲げると、ヲタが殺到して一瞬で徳永に替わりました。おそるべし、菅谷梨沙子。 って、まだ徳永千奈美が初めてステージに立ったとこまでしか進んでいないんですが(つづく)。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-15 08:02
僕が 2000 年代初頭のモーニング娘。ファンから Berryz 工房ファンに移行する間には断絶があって、ヲタとしては一度リセットされています。断絶からハロプロエッグ(現・ハロプロ研修生)を経てモーニング娘。に戻るまでに、10 年近くが過ぎていました。田中れいなと最初に握手したのが 2003 年(れいながモーニング娘。に加入した年)で、2 回目に握手したのが 2012 年(れいながモーニング娘。に在籍した最後の年)なんですが、そういう人って僕の他にもいるんじゃないでしょうか。 今思えば、僕の心がいったんモーニング娘。から離れた原因は、結局、所謂「ハロマゲドン」だったのかもしれません。2002 年の後藤真希モーニング娘。卒業に伴って、のちに「ハロマゲドン」と呼ばれるハロー!プロジェクトの大改革が行われ、その結果、タンポポ、プッチモニ、ミニモニ。、といったユニットが実質消滅してしまうわけですが、そんなハロプロの動向を追っていた僕も、半年も経つと殆ど興味を失って、コンサートに行くことも CD を買うこともストップしました。なので、その空白期間に公開された映画『仔犬ダンの冒険』も、同時上映の樋口真嗣初監督作品(ここ重要)であるところの『ミニモニ。じゃムービーお菓子な大冒険!』も、劇場で見ていません。 そのままハロプロから完全に離れるはずだった僕を一気に引き戻したものは,ZYX であり、「行く ZYX! FLY HIGH」という楽曲でした。ZYX 見たさに約 1 年ぶりに 2003 年夏のハロー!プロジェクト・コンサートに行ってみると、そこにはピンチ・ヒッターで小学 3 年生の菅谷梨沙子の参加した ZYX(!)がいました。その時点で僕の認識では、ZYX は矢口真里のグループだったんですが、そんななか僕の心をさらに掴む CD がリリースされました。鈴木愛理、田中れいな、夏焼雅によるユニット「あぁ!」の「FIRST KISS」です。これは生で見なければ!と思っていたところ、CD リリース・イベントが決定。当時のハロー!プロジェクトは現在ほどリリース・イベントに力を入れてなくて珍しかったこともあり、僕は初めて CD リリース・イベントに行くことにしました。 あの時の愛理のパフォーマンスはもう筆舌に尽くし難いものであり、また、ちっちゃかった。当時小学 3 年生。いまや大学生の愛理が、です。イベントの後に握手会があり、僕は狙って握手のオーラスを取りました。いまで言う「鍵締め」ですが、当時はそんな用語もなく、それを狙っているヲタが殆どいなかったので、簡単にオーラスが取れました。ステージに上がって、こ~んなにちっちゃな(自分の胸の高さくらいの)愛理と握手し、フロアに降りて出口に歩きながら振り向くと、愛理が気付いて手を振る。僕は、スタッフに追いたてられつつ後ずさりしながら外に出る寸前まで手を振り続け、スタッフが扉を閉めようとすると、愛理は最後にピョンピョン跳ねながら「バイバーイ」と両手を振っていました。小 3 の鈴木愛理が僕に向かって必死にピョンピョン跳ねてバイバイしているのだから、そんなの究極的に可愛いに決まってるわけで、よし次のイベントにも絶対に行くぞ、と心に決めました。結局「あぁ!」に次はなかったんですが。 って、まだ Berryz にすら辿り着いていないんですが、長くなってしまうのでここらで(つづく)。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-12 08:01
京浜急行の金沢文庫駅から金沢八景駅に向かって線路の右を歩いていると、大きな工場があります。東急車輌の工場です。なんで東急車輌が京急沿いにあるかというと、たぶん東急と京急が元は一つの会社だったからでしょう。しかし現在、両者には違いがあります。線路のゲージ幅です。東急は JR など日本の大多数の鉄道と同じゲージ幅なのにたいし、京急は新幹線と同じ広いゲージ幅です。東急車輌の工場には道路を横断して京急本線に乗り入れる引き込み線があるんですが、京急、東急どちらの車輌でも通れるようにレールが 3 本引いてあって、その 3 本とも金沢八景方面に伸びています。ここでひとつ疑問が沸きます。東急のゲージ幅の車輌を京急に引き込んで、そのあとどうすんの、ってことです。そのまま狭いゲージ幅で乗り入れても、どこにも行きようがないはずなのに。 ところ変わって JR の逗子駅から東逗子駅に向かって線路の左を歩いていると、単線の踏切があります。一方が JR につながっているのは解るんですが、もう一方は謎のトンネルです。その向こうにあるものは米軍の住宅地、ひと昔前にニュースになった「池子弾薬庫跡地」で、線路は、軍人が警備する物々しいゲートの前を横切っています。この引き込み線には、皇族が葉山の御用邸に滞在している間に御用列車が停まっているという話を聞いたことがあります。元は弾薬庫と国鉄をつなぐ引き込み線だったんでしょうが、なぜいまも残っているんでしょう。 逗子には、京急逗子線も通っています。逗子線は金沢八景で京急本線に合流しますが、その前に、京急新逗子駅を出てすぐに JR と交差します。その立体交差を越えた後、逗子線は池子住宅の前を通って神武寺駅に停まります。この駅が少々変わっていて、片側の出口が直接米軍の敷地につながっていて、そちらの改札を出られるのは米軍関係者だけ。それ以外の者は、改札の前まで行くことはできるんですが、その場合は線路を歩いて渡らなければなりません。そこで横断する線路が二つあって、一つは京急ですが、もう一つが実は JR からの引き込み線の続きなのです。線路に立って先を見ると、JR の引き込み線と京急逗子線が合流しています。JR と京急のゲージ幅は違うので、そこから先のレールは 3 本。つまり、どういうことかというと、金沢八景にある東急車輌で作られた狭軌の車輌は、金沢八景を過ぎた後に京急逗子線に入り、六浦を経て、神武寺で JR の引き込み線に入って池子弾薬庫の前を通り、トンネルをくぐって JR 逗子駅で横須賀線に乗り入れていたのです。素晴らしい! これで謎が一つ解けました。 そういう乗り入れパターンでいま気になっているのが、東急多摩川線の蒲田駅と、数百メートル離れた京急空港線の京急蒲田駅をつなぐという、その名も「蒲蒲線」です。東急線から乗り換えなしで東急の羽田空港駅まで行けるようにするのが目的なんでしょうが、ということは、京急蒲田-羽田空港駅間はレール 3 本になるんですかね。 ▲
by de_kick_o_nice
| 2014-12-05 09:03
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